検索
menu
close
loading...
Special特集
close
検索
Tags
  1. top/
  2. Interview/
  3. 幼い頃から迷いなく進んできた建築家への道
Interview

大学特任教授/建築家・豊田啓介の軌跡│Vol.1

幼い頃から迷いなく進んできた建築家への道

author: 豊田啓介date: 2021/10/12

東京大学生産技術研究所の特任教授であり、建築家でもある豊田啓介──。コンピューテショナルデザインを積極的に取り入れた設計・製作をする傍ら、建築の枠を超えたプロダクトや都市、ファッションなど多分野で活躍。新時代を象徴する気鋭の建築家として、大きな存在感を放っています。2025年の大阪・関西国際博覧会では誘致会場計画アドバイザーを務め​​、「モノ(フィジカル)と情報(デジタル)がシームレスにつながる“共有基盤=コモングラウンド”」という未来の建築や都市のあり方を示しています。

そんな豊田さんのこれまでの道のりを、Beyondストラテジーディレクターであり、モータージャーナリストの川端由美がインタビュー。

物心ついたときから建物が好きだった

川端 豊田さんの経歴を拝見すると、東大工学部建築学科、安藤事務所、コロンビア大学院留学など、きらびやかなキャリアが並んでいます。とはいえ、成功ばかりではなく、いろんな失敗を乗り越えての現在だと思います。今回は成功への道だけでなく、そういう迷いや失敗をどう乗り越えてきたのかもぜひ聞かせてください。

そもそも豊田さんが建築を目指そうと思ったのは、いつからだったんですか。

image

豊田 小学校の頃には、建築家になると決めていましたね。ほかの道を考えたり、悩んだこともありませんでした。

もちろん、小学生ですから、具体的に建築家という職業がイメージできていたわけではありません。ただ、街を歩いていて新しいビルを見かけると、「俺のほうが、かっこいいのがつくれるな」とか思うような子どもだったんです。

うちの親はゲームやおもちゃを買ってくれるタイプではなくて、子どもの頃の遊びはもっぱら空き箱を使った立体づくり。部屋にはマーガリンの空き箱とかが山のように積んでありました。たまに、お歳暮で高級菓子や紅茶の入った蓋の開くタイプの箱が手に入ると、最高にうれしくてね。「これで、何をつくってやろう!」ってワクワクしているような子でした。

今でもよく覚えているのは、小5のときの図画工作の授業です。教科書の美術年表のはしに小さく建築のカテゴリーがあって、フランク・ロイド・ライド(※)の「落水荘」の写真が載っていたんです。建築史的にはモダニズムの構成とミニマムなマテリアルが画期的な名作なんですが、小学生の自分には、これが教科書に載る意味がまったく理解できない。僕は千葉の検見川浜にある団地育ちで、「こんなのウチとかわらないじゃないか。こんなのなら自分にもできるんじゃないか」と思ったんです。今考えると赤面モノですが、当時は違いが分からなかった。でも興味はあったわけですね。

(※)フランク・ライド・ロイド…アメリカの建築家。近代建築三大巨匠のひとり。

川端 空き箱で立体づくりに熱中している時点で、建築家への道が感じられますね。

豊田 自分の住む団地の川向こうでは、幕張副都心の開発が始まっていました。千葉市の広報誌に掲載された完成予想図を見ながら、「うわっ、こんなビルができるのか!」と夢中で見てました。夜中に自転車で建設現場をこっそり見に行ったりもしていましたね。

川端 幕張副都心は、その頃にしては新しい建物が造られた場所でしたから、豊田少年の好奇心を多いに刺激したんでしょう。そうすると、やりたいことはずっと一気通貫していたんですね。

豊田 進路への迷いは、正直持ったことがないんです。逆に、迷っている人の相談にのるのはむずかしいかもしれない(笑)。

高校で野球をやるために、中学では強い陸上部へ

川端 「俺のほうがもっと上手くつくれる」と思っていた豊田少年は、どのように成長していったんですか。

豊田 小学校からずっと野球少年で、運動ばっかりやってました(笑)。建築家になると思っている割には、建築家や建築について調べたりしてたわけでもなかったんです。

進学した地元の中学校は野球部が弱小で、陸上が強かったんです。高校に入って野球をやるために、中学では強い陸上部で体力とスキルを身につけることにしました。

川端 面白い発想ですね。

豊田 高校では高3の夏まで野球漬け。朝練で登校したら、そのままずっと部室で漫画読んで弁当食って、授業には出ずに、再び放課後、練習というような高校生でした。周りの運動部がみんなそんな感じのゆるめの公立校だったので、卒業するまで塾とか勉強とかほぼ無縁のままでした。

川端 それで、東大に入れるのがすごい!

豊田 もちろん一年浪人してますよ。親には「ギリギリまで野球をやらせてくれ。その代わり、1年浪人して必ず東大に入るから」と見栄を切って頭を下げました。

「どうやら世の中には建築学科というものがあるらしい」と気づいたのは、高2か高3。野球ばっかりで受験のことは全然知らなくて、大学入試センター試験(現在の共通テスト)のこともよくわかってなかった。締め切り前日に、野球部仲間と一緒に慌てて申し込みに行ったくらいです。

東大から安藤事務所へ

川端 約束通り、1年浪人して無事、東大の建築学科に進むわけですね。

豊田 浪人中は死ぬほど勉強して、なんとか東大の理Ⅰに合格しました。東大は1、2年が教養で、3年から専門に分かれます。僕は1年生のときに浪人生活の反動で遊びまくってしまって、成績はボロボロ。当時、建築学科は工学部でも1、2を争う人気学科、僕が希望の建築学科に行くには、大学2年の前期でほぼ満点をとらなくてはなりませんでした。そこからは、浪人中よりもさらに死にもの狂いで勉強しました。試験中は1週間ほぼ徹夜で、毎晩翌日の科目の参考書を2~3冊ずつ丸暗記して挑むような感じでした。あのときの集中力は、今思い返しても、鬼気迫るものがあります(笑)。

川端 それはすごい。東大では、どんな学びを得られましたか。

豊田 東大で専門を学ぶのは3、4年の2年と短いんです。ちょうど建築学科が所属する工学部の建物が改装工事中だったので、僕らは学期が終わるごとに研究室を移動して使っていました。学期が終わると引っ越しだから、制作物などを壊しながら毎回、ひと晩中パーティをやったり。今思い返すとほとんど遊んでいた記憶しかないですね(笑)。

東大の建築学科ではみんな優秀だし行動力もあるし、同じ興味を持っている同期達からすごく刺激を受けました。「自分は有機的なごちゃごちゃしたものが好きなんだ」とはっきり自覚できたのも、東大時代です。

image

川端 東大から安藤事務所に就職。なぜ安藤忠雄さんだったんですか。

豊田 本当は、大学卒業後、大学院に進むつもりでした。留学を目指していたんですが、バブル後の当時、相応の奨学金を取るには大学院に行っている方がよかったんです。大学4年の夏休み、大学院入試の勉強をしていたとき、忘れもしない7月19日、夜中の2時に突然、電話がなったんです。それが安藤事務所に行っていた先輩からだったんです。

「お前、うちの研究所に来る気あるか? もし、そうなら月曜日までに返事をくれ」と。突然過ぎて、わけがわからない(笑)。畳の上に正座したまま朝まで、「今のはいったいなんだったんだ、俺はどうするべきなんだ」と呆然としながら、考えました。

川端 そんなことがあるんですね。

豊田 安藤事務所では、所員の紹介で有望な人材をスカウトして採用するんです。もちろん、安藤忠雄のことは知っていますが、特別追いかけていたというわけでもなかったので、なおさら狐につままれたような気持ちでした。

川端 今と違って、ネットでクチコミ検索もできないですし(笑)。自分の中の軸だけで判断しなくてはいけなかったんですね。

豊田 そうですね。改めて、自分はなぜ留学したいのかを考えてみたら、「違う水」の中でものを考えたいという欲求からだった。外国で学ぶのも、大阪という行ったこともない場所でいきなり仕事をするのも、水を変えるという意味では、同じだと気づきました。

それで、「よし、安藤事務所にお世話になろう」と決めて、2日後の月曜日には新幹線に乗って、大阪へ。安藤事務所に、就職の条件を確認しに行っていました。

ヨーロッパ文化を肌で感じたバックパッカー旅行

豊田 そんなふうに就職が急に決まって、院試の勉強をするつもりだった夏休みの予定が、ぽっかり空いてしまったんです。じゃあ、ということで、そのままリュックをしょって1カ月半ヨーロッパを放浪するバックパッカーの旅に出かけました。

image

ヨーロッパではイタリア、ギリシャ、トルコを訪れて、ひたすら「集落」を見て回りました。特に南イタリアやギリシヤにあるような、さまざまなものが有機的につながっている集落には、非常に惹かれましたね。

先ほども話したように、僕は埋立地のニュータウンという、あらゆるものが四角くて整合的なものに囲まれた場所で育ちました。だからこそ、それとは真逆にある、不特定多数の人が繋がりながら暮らしの中で自然につくられていく集落のデザイン、それを生み出してきた人々の想いに強烈に魅力を感じるんです。デザイナーが同じようなものをデザインしたとしても、それはデザインされた瞬間にフェイクになる。集落から自然発生的に生まれる空間の力に、強い憧れを抱きました。

川端 ヨーロッパは都市計画もすばらしいですが、豊田さんはそれよりも、もっと原始的で自然発生的な街や集落に惹かれたんですね。

豊田 はい。でも、そのエッセンスをそのまま真似するだけでは、単なるテーマパークになってしまう。そうではなくて、その背景にある遺伝子的なものを抽出し、それを生成させたい。それは当時から今に至るまで、僕の中に確固としてあります。

川端 今の豊田さんの原点のひとつが、大学時代の旅だったということですね。

豊田 本当にそうです。ひたすら歩いて回ったインプットの旅でした。

ヨーロッパへの、当時の学生が使っていた格安チケットで、ローマに深夜着の便だったんですが、深夜の空港から街に着いたら、当たり前なんですけど、あらゆる建物が石造なんですよ。そのときのショックといったら、もう想像を超えていましたね。笑いが止まらなくて、深夜のローマの街をホテルに着くまで、大笑いしながら歩いていました(笑)。

貧乏旅行なので、1日パン1個で過ごすことがほとんど。そうすると、ときどき疲れや寂しさから、どうしようもなくなるときがあるんです。そんなとき、地元のトラットリアにフラフラと入って、一皿のパスタと一杯のワインを頼んだときのことは、今でもよく覚えています。

カトリックの儀式で「このパンは私の体である」「このワインは私の血である」というのがあるじゃないですか。目の前のパンやワインを一口味わったときに、それが突然浮かんで「おお、これがキリストの肉か、これがキリストの血なのか! わかる、わかるぞ!!」って。ワインなんかおいしいと思ったこともなかったのに、本当に地元で味わうとうまいんですね。香りから違う。これがヨーロッパの文化なんだ、と腹落ちした気がしました。

川端 かなり衝撃的な体験だったんですね。

豊田 建築だけを見に行くつもりでしたが、食事のおいしさに感動したり、文化に触れることで、もっと多くのものを吸収できました。旅先の疲れや不安などもあって、神経が研ぎ澄まされているときに舌で味わい、肌で風を感じる……では残せないインパクトを心に刻んでくれますよね。

僕は今、コンピューテショナルデザインをしてますが、これはそれにも通じることです。フィジカルに体感した情報の蓄積があるからこそ、今自分に届いている情報はメディアのフィルターを通した限られたものなんだという前提が理解できる。そのフィルターの向こうには、もっとリッチなものが存在していると想像することもできるんです。

そう考えると、今、コロナでいろいろな体験が制限されていることは、特に若い人にとって、非常につらい状況だし、なんとかしてあげたいなとすごく思います。

<川端由美の対談後記>

豊田さんとは、スマートシティの最先端を作る人たちが集まるパネルディスカッションで知り合いました。が、その中でも、別格の異彩を放っていたのが、豊田さんでした。真の意味でのデジタル化について、身をもって体験していることに加えて、真のデジタル化こそが日本の建築業界、ひいては、日本の町づくりや暮らしのあり方をよりよく変化させる、そんな使命感を感じるコメントに、豊田さんのお人柄を感じて、あらためてじっくりお話を聞いてみたいとかねがね思っていました。その思いが叶って、本対談にこぎつけたワケですが...とても、一回の対談記事ではまとめられないほどの内容の濃さで、3回の連載として、記事化しました。第一回は、豊田さんが建築家という職業を目指す過程での様々な体験を通して、「豊田さんの今」が形成されるまでのお話をまとめました。ぜひ、豊田さんのお話や生き方を通して、日本という国で起こるべきデジタルトランスフォーメーションのあるべき姿を垣間見ていただければと思っています。

author's articles
author's articles

author
https://d3n24rcbvpcz6k.cloudfront.net/wp-content/uploads/2021/10/103_01.jpg

東京大学生産技術研究所 特任教授/建築家
豊田啓介

1972年、千葉県出身。96年、東京大学工学部建築学科卒業。96-00年、安藤事務所を経て、02年コロンビア大学建築学部修士課程(AAD)修了。02-06年、SHoP Architects(ニューヨーク)を経て、2007年より東京と台北をベースに建築デザイン事務所noizを蔡佳萱と設立(2016年より酒井康介がパートナーとして加わる)。2025年大阪・関西国際博覧会 誘致会場計画アドバイザー(2017年~2018年)。建築情報学会副会長(2020年~)。大阪コモングラウンド・リビングラボ アドバイザー(2020年〜)。2021年より東京大学生産技術研究所特任教授。
Follow us!!
Copyright © Connect Beyond. All Rights Reserved.