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Interview

川内イオと稀人ハンターズ

「自分らしく、泳ぐ」21歳の鯉のぼりデザイナーが作る、人生の陰陽を表す鯉のぼり

author: 稀人ハンタースクールdate: 2024/05/05

「泳泳(えいえい)」は、21歳の鯉のぼりデザイナー山岡寛泳さんが、2018年に立ち上げた鯉のぼりのオリジナルブランドだ。京都の職人さんが一色ずつ丁寧に手作業で染め上げる、小ぶりで独特のデザインには、山岡さんの人生や未来、文化などの様々な想いが込められている。ECサイトでの販売のほか、ギャラリー展示など精力的に活動し、2022年には「GOOD DESIGN NEW HOPE AWARD」も受賞した。

稀人No.008
鯉のぼりデザイナー・山岡寛泳(やまおか かんえい)

鯉のぼりブランド「泳泳」を展開する「鯉のぼりデザイナー」。2002年岐阜県可児市生まれ、東京在住。小学校の頃に鯉のぼりに魅せられたことをきっかけに16歳で「泳泳」を立ち上げる。2020年から鯉のぼりの製造販売を事業化し、日本文化の継承と海外への発信を目指して活動している。

HP :https://eiei.jp/page
Instagram:@kanei_yamaoka

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深い青色とパッと目を引く赤色のふたつの鯉のぼり。大きな目と鮮やかな色使いが印象的だ。モダンで落ち着いたデザインは、どこかほっとさせる雰囲気がある。天に向かって泳ぐ姿はもちろん素敵だが、室内に静かに掲げられている姿も実に様になっている。少し小ぶりな約1メートルの鯉のぼりは、例えばリビングのタペストリーとして、もしくは玄関を飾る絵画の代わりに、すっと日常に溶け込んでいるように見えた。

山岡寛泳さんが16歳でオリジナルブランド「泳泳」を本格的に始めてから約5年。ゆっくりと着実に広い世界へ泳ぎ出した彼の手には今、ある一通の手紙が握られている。それはファッションブランド「ポール・スミス」の創始者であり、デザイナーのポール・ポール・スミス氏から直接送られてきたものだ。

「Come to our office when you come to London. You are always welcome. (ロンドンに来る時はぜひオフィスへおいで)」

好きなことにとことんまっすぐな少年が、悩み、孤独と向き合いながら作り上げた「自分だけの道」。唯一無二の鯉のぼりデザイナーとしての歩みを追う。

仮面ライダーよりも大仏が好きな少年

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山岡さんは2002年に岐阜県可児市に生まれた。自然豊かな長閑な場所で、山や川が身近にある環境だった。幼い頃から、とにかく興味があることを調べて、何かを作ったり表現したりするのが好きな子どもだったそうだ。

幼稚園の頃、最初にはまったものはなんと仏像。近所のお寺にふらっとひとりで遊びに行き、飽きることなく仏像を眺めては、仏像の絵を描いていた。渋い趣味ですね、と感想を伝えると「そうですね」と静かに笑って当時の気持ちを教えてくれた。

「なんか好きだったんですよね。かっこいいなって。世間一般の男の子が仮面ライダーを好きになる感覚と同じかも。気づいたら好きだったんです」

家族も山岡さんの趣味を、面白いねと言って応援してくれた。描いた絵を褒めてくれたり、東大寺の大仏を見に奈良旅行に連れていったりしてくれたそうだ。好きなことに真っ直ぐな山岡さんの興味の幅は、学年が上がるにつれてどんどん広がり、表現の種類も増えていった。

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小学校の授業で伝統工芸の存在を知ってからは、漆器などの生活用品や工業製品にはまっていった。図書館に通い、図鑑や写真集を眺めて知識をインプットする日々。クラスの図書館利用数ランキングでトップを取ることも珍しくなかった。小説や児童書をほとんど読まずにそのポジションをキープしていたというから驚きだ。 

そして調べたら実際にやってみたくなる性格の山岡さんは、本で知ったガリ版印刷機を使ってオリジナルの新聞を作ったり、写真を撮ってコンテストに応募したり、とにかくいろいろなことを試し、表現やものづくりに没頭していった。ちなみにガリ版印刷機はサンタさんにお願いしたそうだ。クリスマスプレゼントにしてはなかなか渋いチョイスだ。

鯉のぼりとの出会いは突然に

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山岡さんと鯉のぼりの出会いは、小学校4年生のある晴れた春の週末だった。その日は家族と車で出かけていて、家から1時間半ほど走った岐阜県北部のひるがの高原サービスエリアに立ち寄った時、青空を背景に悠々と泳ぐ鯉のぼりを見つけた。紺色と朱色。鱗模様の白い線がすっと細く入っている。落ち着いた色味に派手さはない。しかし、どこか惹きつけられる風格があった。

「すごい変わったデザインだなって思いました。今まで見たどの鯉のぼりとも違うなって。それまで大量生産された鯉のぼりしか見たことがなかったのでとても驚きました」

それは岐阜県郡上市の工房の作品で、江戸時代から400年以上、作り方を変えずに受け継がれてきたものだった。

山岡さん曰く、鯉のぼりが作られ始めた江戸時代当時、デザインは今よりもっとシンプルだった。染め方は「型染め」が主流で、米糠などでできた防染糊を、布の染めたくない部分(鱗などの模様)に塗ってから、染料で染めて川に晒す。川の水で糊が溶けて、染まっていない部分が白く模様として浮き上がってくる。

「錦鯉のような派手な柄が出てきたのって実は現代になってからなんです。伝統の技を使った昔ながらの鯉のぼりの姿は、純粋にかっこいいなって思いました」

 夏休みの宿題で鯉のぼりを自作

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伝統的な鯉のぼりの美しさに魅了された山岡さんは、その年の夏休み、自由研究の宿題で人生で初めて鯉のぼりを自作してみることにした。作り方をインターネットで調べ、材料はホームセンターや手芸店で買ってきた綿の布と布用の絵の具。防染糊には障子用の糊を代用した。子どもながらに伝統技法もしっかり取り入れるところが山岡さんらしい。

「いろいろな色を使ってカラフルにしました。ちゃんと色が着くかなってドキドキでしたね」

制作期間は約1ヶ月。夏休みをほとんど丸ごと使って、初めての鯉のぼりは完成した。夏休み明けの教室には、同級生のアサガオ観察日記などと並び、山岡さんの虹色の鯉のぼりが飾られることになった。

鯉のぼり作りは楽しかった。しかしこの後すぐに「鯉のぼりデザイナー」としての活動が始まったわけではない。山岡さんにとって、鯉のぼりはあくまで好きなもののひとつ。夏休みが終わった後は、引き続き絵を描いたり、写真を撮ったり、様々な表現を続ける毎日に戻っていった。彼が鯉のぼりデザイナーになるにはまだあと5年ほどの空白がある。その隙間を埋めていこう。

地元で感じた閉塞感

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自分の興味に一直線に突き進む山岡さんだったが、小学校高学年になると周囲との違いに段々と戸惑うことも増えていった。

同級生がゲームの話題で盛り上がっていても、一切興味がわかなかった山岡さんは輪の中に入れない。仏像や伝統工芸など好きな世界を共有できる友人も周りにいない。ひとりで本を読み、絵を描いている山岡さんに対し、同級生たちは時折、冷ややかな態度を取ることもあった。

「自分は変な人間だったので。羽交い締めにされたり、いじめのようなこともありました」

山岡さんが生まれ育った可児市は人口10万人程度の地方都市だ。田舎の特性上、小学校でできた人間関係は変わることなく、中学、高校と引き継がれる。その閉ざされた環境から「より広い世界へ出たい」と強く思っていた山岡さんは、中学校に入学して1週間で学校に行くのをやめてしまう。登校しても保健室。教室には行かなかった。

「人の目を気にしてやりたいことをやらないのはおかしいよなって昔から思っていて。みんなと同じようにしようとしてもできないし、変人扱いされても自分を曲げることはしませんでした。というか、できなかった、と言うのかな」

当時を振り返り、山岡さんは「日常はつまらなかった」と静かに語る。そのころはちょうど農業にはまっていて、学校に行かない日はハーブや野菜の世話をして過ごした。黙々と趣味に打ち込みながらも、日々はなんとなく過ぎていった。

兄が見つけてきた“ロケットの搭乗券”

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そうした状態が1年ほど続いたある日、5つ上の兄が「こんなのあるけど応募してみたら?」とネットニュースの記事を送ってきた。それは日本財団と東京大学先端科学技術研究センターが共同で主催する「異才発掘プロジェクトROCKET」の三期生募集の記事だった。

異才発掘プロジェクトROCKETとは、2014年から2021年度まで行われた小中学生向けの支援プログラムだ。突出した能力はあるものの、現状の教育環境に馴染めない子どもたちをサポートすることが目的で、子どもたちの特性に応じた様々なカリキュラムが用意されていた。

「学校以外の場で学びを広げる」というコンセプトに惹かれた山岡さんは、迷うことなく応募を決めた。「もっと外の世界に行った方がいい」と、父も母も兄も応援してくれた。

過去の開催実績を見ると、メンバーに選ばれるためには通過率数%の狭き門を突破する必要があった。自身の経歴や活動を説明する資料の提出が必須だったため、山岡さんはこれまで作ってきた新聞や撮り溜めた写真、描いてきた絵、育ててきた植物のことをまとめて自己紹介代わりのポートフォリオを作った。これまでやってきたものをすべて詰め込んだ。

「自分にとって地元は限られた世界でした。そこから抜け出すチャンスだと思ったんです」

プロジェクトには全国から様々な才能を持った子どもたちが応募してくる。自分には無理かもしれないと思いながら選考結果を待った。

そして2016年の冬、プロジェクトを運営している東大の研究室から山岡さんのパソコンにメールが届いた。ドキドキしながら開封すると、メンバーに選ばれたこと、そして主に東京で開催されるプロジェクトの概要などが記されていた。応募者数527人に対して通過者は31人。通過率は約6%だった。

「自信なんて全然なかったので、すごくホッとしました」

14歳の終わり、山岡さんの世界が一歩広がった瞬間だった。

「自分は何者か」を考える日々

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ROCKETのメインプロジェクトの期間は1年間。東京大学駒場キャンパス内にある先端科学技術研究センターが活動の拠点だった。ROCKETに参加したことで、中学3年生だった山岡さんの世界は格段に広がっていった。

岐阜から東京へ月に1、2回ほど通うようになり、様々な特技や特性を持つ同世代の子どもたちとの交流が生まれた。経営者やアーティストなど、各業界のトップランナーと呼ばれる大人たちからビジネスや哲学やそのほか様々な話を聞き、対話を重ねた。研修旅行ではインドに飛び、ガンジス川で死体が焼かれていく様を見守った。

「常に本質は何かを考えさせられた」と山岡さんは振り返る。毎回レポート提出が義務付けられていたため、各回ごとに何を感じたか、どんな学びがあったかを必死に考える必要があった。「(深掘りが)甘い」と言われてレポートを突き返されることもあったという。

「各業界で第一線を走る人たちに出会い、何かひとつ明確に『この人と言えばこれ』と言えるものがないといけないと感じました。自分だったら何ができるんだろうって、アイデンティティのようなものをずっと考えていました」

鯉のぼりデザイナーとしての一歩

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「自分は何をして生きていくのか」

その問いに向き合い続けた15歳の山岡さんが出した答えが、鯉のぼりだった。

小さい頃からものづくりが好きだったため、漠然と「何かを作ったり表現したりして生きていくんだろうな」とは思っていた。しかし数ある好きなもののなかから、どうして鯉のぼりに決めたのだろうか。聞くと「きっかけは服を見る機会が増えたから」と意外な答えが返ってきた。

東京に頻繁に出るようになると、様々なファッションに触れる機会が増えた。マリメッコやポール・スミスなど、カラフルでポジティブな印象を与えるブランドが特に好きになり、服を眺めるたびに「人を惹きつける日常のデザイン」への興味が増していったそうだ。

さらに同じ時期にROCKETでも、世界的なアーティストの活動を手伝うプロジェクトに参加したり、絵画や映像など様々な表現に取り組む仲間の作品を見たりしたことで、「アートとデザインの違い」を深く深く考えていった。それぞれの定義が自分なりに固まったことで、進むべき道がより明確になったという。

「アートは自己表現の要素が強いけれど、デザインにはもっと社会性が必要。使いやすさとか日常に溶け込むことが大切で、より多くの人に喜んでもらうことをゴールにしています。昔から器とか暮らしの中にある製品が大好きだったし、服も同じ。自分が作ったものを家族にあげて喜んでもらうことも好きでした」

デザインで多くの人を喜ばせたいと考えた山岡さんが悩んだ末に選択したのが、鯉のぼりだったというわけだ。鯉のぼりの“可能性”にも大いに惹かれたという。

「ものづくりに伝統文化、デザインの要素もあるので、自分のやりたいことがぜんぶ含まれていました。デザインには基になるコンセプトが大切ですが、鯉のぼりには日本の伝統に即したストーリーが組み込まれているし、独特の見た目はアイコンにもなりうる。すごいポテンシャルがあるなって思ったんです」

オリジナルブランド「泳泳」を設立

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自分の道を見つけた山岡さんは鯉のぼり作りに没頭した。作り方は10歳の頃と大きくは変わらず、布と染料、防染糊を使った伝統的なやり方だった。ROCKETの活動や鯉のぼり制作に打ち込むうちに時間はあっという間に過ぎ、中学校はほとんど通わないまま卒業。作業時間が確保できるように高校は通信制の学校に進学した。

初めて仕事の依頼が来たのは16歳の時。知り合いから、子どもが生まれたので鯉のぼりを作ってほしいと頼まれた。初めてのことで値付けなど戸惑う部分もあったが、丁寧に心を込めて鯉のぼりを染め上げた。納品を終えた後、依頼主からは御礼と共に一枚の写真が送られてきた。鯉のぼりと一緒に笑顔で映る赤ちゃんの写真だった。

「写真を見返すと、当時のデザインはまだまだ荒削りだなとも思いますが、自分の鯉のぼりで誰かに喜んでもらえた時はやっぱりすごく嬉しかったです」

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より多くの人に鯉のぼりを届けたいと思いを強くした山岡さんは、ブランドづくりを本格化する。まずはブランド名を自身の名前から一文字とって「泳泳」に決めた。そして、それまで一匹あたり丸二日以上かかっていた制作工程を見直し、染色をプロに任せることを思いたつ。

「ものづくりはもちろん好きですが、作る作業はプロに任せて、自分はコンセプトとかブランドづくりに注力したいと思ったんです」

2019年、17歳のことだった。

Googleマップで工場探し

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量産体制を築くために、まず着手したのは染色工場探し。染物技術について調べ上げていた山岡さんは「手捺染(てなっせん)」という技術に着目する。シルクスクリーンと同じ技術で、図柄に合わせて色を重ねていく日本の伝統的な染め方だ。

手捺染の工房が京都に集中していることを知った山岡さんは、Googleマップで京都周辺の手捺染の染色工場を検索。地図に表示された工場の中から、京都駅から近い順に電話をかけていった。

高校生ながら随分と大胆な行動だ。「電話をかけるのは怖くなかったですか?」と聞くと、実はけっこう不安だったそうで、通話ボタンを押すまでに5分ほどスマホの画面を見つめて逡巡したという。

意を決してかけた一軒目の工房は、山岡さんが高校生であることを告げるとすぐに断られた。「やっぱりダメかも」そう思いながらかけた二軒目の工房は、驚くほどすんなり話を聞いてくれた。一度見学においでよと言われ、日を改めて工場見学に行けることになった。

「高校生の自分ともすごく対等に話をしてくれました。お金がきちんと払えるならいいよ、みたいな感じで。すごくありがたかったです」

そこは昭和35年に創業した染色工場で、工場にとって山岡さんは最年少の取引相手だった。後日見学に訪れた山岡さんに対し社長や職人さんは真摯に対応してくれて、技術的な相談にもたくさん乗ってくれたという。一反(約50メートル)で15~20万円程度かかる資金は祖母から借りたお金とお年玉で賄った。

人生のアップダウンをデザインに込めて

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意外とすんなり工場が決まった後は、鯉のぼりのデザインを固めていった。もともと、自然からデザインのインスピレーションを受けることが多かったなかで、モチーフに選んだのが「水」だった。そこには「色々と波がある人生」を歩む山岡さんだからこその想いがあった。

「絶え間なく変動する水面を見ていて、人生と同じだなって思ったんです。自分は学校に行けなくて、うまくいかない時期もあった。人生には陰と陽があって、みんな陰が悪いと評価をするけど、どちらが悪いとか良いとか評価をすること自体がなんか違うな、嫌だなって思ったんです。人生のどんな時もあるがまま、フラットに捉えることが大事という想いをデザインに込めました」

鯉のぼりは子どもの成長と成功を願うもので、いわば人生のシンボル。その鯉のぼりに人生を抽象化したデザインを組み込むことは大きな意味があると感じたそうだ。

その後は、色味など細かい調整を工場と進めていき、迎えた2020年2月中旬、念願の染色の日を迎えた。

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その日、工場には端から端まで届くような25メートルの白い生地が2本並んでいた。生地には山岡さんがデザインした鯉のぼりの版が彫られ、そこに職人が一つひとつ手作業で色を染めていく。手の動きに合わせてシュッとキレのいい音が工場内に響いた。2時間後、生地いっぱいに80匹の鯉のぼりが並んでいた。その様子をじっと見守っていた山岡さんは「まるで自分のクローンのような、我が子が産まれたような嬉しさ」を感じたという。 

「とても刺激的な1日でした。自分が作り出したデザインを職人さんの手で形にしてもらって、それが一面に広がってる。その光景は人生で忘れられません」 

初めて染色を行った日は関西のテレビ局の取材も入っていた。もともとはROCKETの活動を取材していた番組制作スタッフが山岡さんの活動を知り、取材依頼が来たのだ。鯉のぼりデザイナーとしての活動がビビットな鯉のぼりと共にテレビで流れると、問い合わせも増え、さらにメディアの取材も増えていった。2回目以降の染色は、売上から費用を工面できるようになったという。

たったひとりの挑戦は、不安もあった

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ブランドを立ち上げ、生産体制も整えた翌年の2021年。山岡さんは上京し、文化服装学院の夜間部に入学した。ファッションを学ぶ学生と鯉のぼりデザイナーの二足の草鞋で活動を続けている。

都内に軸足を移したことで、泳泳の活動もより精力的になった。下北沢のソーシャルレジデンスに住み始めて人脈が広がり、知人の紹介で都内のギャラリーや宿泊施設などで展示会を行えるようになった。HPを立ち上げてECサイトの機能も強化。委託販売などと併せて100匹以上が山岡さんの元を巣立っていった。主に家族や友人へのプレゼント用に購入する人が多いそうだ。遠くは沖縄の離島や海外から注文が入ることもあった。

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そして2022年には、そのデザインとコンセプトのユニークさや販売実績などが評価され、日本デザイン振興会が若者向けに新設した「GOOD DESIGN NEW HOPE AWARD」も受賞。ゆっくりと、しかし着実に、世の中に山岡さんの鯉のぼりの価値が認められ始めている。

15、6歳で自分の道を決め、前例のない鯉のぼりデザイナーとしての歩みを進める山岡さん。お手本となる人もいないたったひとりの挑戦に、心細さがなかったわけではない。

「賞を取れたことはやっぱり嬉しかったです。周りに同じことをやっている人はいないし、自分の考えが合ってるのか間違ってるのかも手探りでした。業界の人からきちんと評価されたことで、自分の取り組みが正しかったと言われたようで安心しました」

今はただただものづくりに夢中

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ファッションを勉強するようになり、鯉のぼりの今後にも大きな展望が見えてきた。それは「鯉のぼりを鯉のぼりとしてだけで完結させない」こと。アパレルやインテリアなど、鯉のぼりの多彩な使い方を提案して、ゆくゆくは世界に向けて発信していきたいという。

「泳泳のデザイン性・コンテンツ性を活かして、例えばファッションブランドや様々なアーティストとコラボレーションしていけば、鯉のぼりは海外にも展開できるはず」と話す山岡さんの思いは、すでに確信に近い感覚だ。それには大きな「手応え」も影響している。

それは2023年10月のこと、山岡さんは原宿のキャットストリートで行われたポール・スミスの展示会にいた。専門学校で選抜された学生が参加できる交流会が企画され、デザイナーのポール・ポール・スミス氏と実際に話せるチャンスを得た。

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山岡さんはポール・スミスの代名詞とも言われるストライプ柄のシャツと靴下を身につけて会場に向かった。小脇には鯉のぼりが入った泳泳の黒い箱を抱えていた。会場には10人程度の学生とポール・スミス氏のほか、多くのファッション関係者が詰めかけていた。

まずはポール・スミス氏から直々に展示内容の説明を受けたのち、写真撮影と交流の時間になった。中学生の頃から大好きだったファッションデザイナーが目の前にいる。緊張しないわけはない。前日に考えてきた挨拶と共に、拙いながらも英語でポール・スミス氏と言葉を交わした。途中聞き取れないこともあったが、周囲の大人がフォローに入ってくれた。

そしてタイミングをみて「これは僕が作っているものです」と鯉のぼりを手渡した。「ファッションブランドの展示会で鯉のぼりなんて場違いだ!」と怒られやしないか内心ドッキドキだったそうだ。

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山岡さんの不安をよそに、ポール・スミス氏は笑顔で箱を受け取り、「ここで開けてもいい?」とその場ですぐに開封。すでに鯉のぼりが何かを知っていたようで、嬉しそうに箱から取り出して眺めてくれた。そして鯉のぼりを体に当ててみせ、「ネクタイにしたり、靴下にしたりしてもいいね、シャツにもできそうだ」とファッションデザイナーらしいアイデアをシェアしてくれた。

「その場で中身を見てくれるとは思わなかったので、すごく嬉しかったです。鯉のぼりを渡すこと自体、ドキドキだったのでホッとしました」

鯉のぼりと一緒に、山岡さんはポール・スミス氏宛の手紙も渡していた。ポール・スミスがとても好きだということと、鯉のぼりにかける思いを綴った手紙だった。そして冒頭で紹介した通り、原宿での交流から2ヶ月経った2023年の終わり、ポール・スミス氏から直接「ロンドンに来るならオフィスへおいで」と返事が来たのだった。

「暖かくなったらロンドンに行って、彼のオフィスを訪ねる予定です」

山岡さんの視線はすでに海を渡っているようだった。今後もずっと何かを作り出していきたいと話す21歳の青年は、2024年3月に服飾学校を卒業する。卒業後は会社を立ち上げ、自らのデザインを軸として、鯉のぼりはもちろん、アパレルなど様々な製品の製造販売を手がけていく予定だという。引き続き前例のない道だ。不安はないですか? と聞くとカラッとした笑顔を見せてくれた。

「寂しいとか、不安だとか、今はそれさえも考えられないくらい夢中でやってます」

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執筆
甲斐イアン

1989年、千葉県生まれ。徳島県在住のライター、イラストレーター。ガジェット系メディア、地方創生ベンチャーを経てフリーランスに。ビジネス、キャリア、まちづくり、旅、マーケティングなど幅広い分野で活動中。世の中の“当たり前”がちょっと広がるようなストーリーを探して西に東に、時には海外まで取材にいきます。特技は似顔絵とバタフライ。

編集、稀人ハンタースクール主催
川内イオ

1979年生まれ。ジャンルを問わず「世界を明るく照らす稀な人」を追う稀人ハンターとして取材、執筆、編集、イベントなどを行う。

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稀人ハンタースクール

ジャンルを問わず「世界を明るく照らす稀な人」を追う稀人ハンター、川内イオが主催するスクール。2023年3月に開校。世界に散らばる27人の一期生とともに、全国に散らばる稀人に光を当て、多彩な生き方や働き方を世に広く伝えることで「誰もが個性きらめく稀人になれる社会」を目指す。
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